Mozuku's tumblr

5月 24

tsukamoto:

東京電力が申請した家庭向け電気料金の値上げの妥当性を検証する経済産業省の審議会「電気料金審査専門委員会」は二十三日、東京電力などの全国の十電力会社の収益構造を明らかにした。東電の販売電力量の六割は企業など大口利用者向けだが、利益の九割は家庭向けで上げていた。全国平均でも傾向は同じで、家庭向け料金が企業向けより、大幅に割高になっている実態が初めて明らかになった。 (東京新聞:東電利益 家庭から9割 電気料金審査委販 売量は4割弱:経済(TOKYO Web)から)

tsukamoto:

東京電力が申請した家庭向け電気料金の値上げの妥当性を検証する経済産業省の審議会「電気料金審査専門委員会」は二十三日、東京電力などの全国の十電力会社の収益構造を明らかにした。東電の販売電力量の六割は企業など大口利用者向けだが、利益の九割は家庭向けで上げていた。全国平均でも傾向は同じで、家庭向け料金が企業向けより、大幅に割高になっている実態が初めて明らかになった。
(東京新聞:東電利益 家庭から9割 電気料金審査委販 売量は4割弱:経済(TOKYO Web)から)

5月 23

shy-azusa:

綺麗な画像ください - がぞ〜速報

shy-azusa:

綺麗な画像ください - がぞ〜速報

kari-shma:

[via: 2eyes]

kari-shma:

[via: 2eyes]

問題なのは、一見「よくできている」答案を書いた学生の多くが、「的確に」「整理」された資料のまとめとはまったく切れたところで、通俗的な歴史観、社会観を「カスリ傷ひとつ」負わずに保持し続けているかもしれないということである。そして多くの教師がそのことに気づかぬままに、自分の「ピエロ」ぶりを意識すらせずにピエロを演じ続けているのではないのか。これこそ悲喜劇である。

こうした事態が起きるのは、教師の側で、学生の歴史観、社会観を揺さぶるような形で教育を行っていないからである。誤解しないで欲しいのは、「学生の歴史観、社会観を揺さぶる」と言ったとき、教師が(自分では批判的だと思っている)自分の歴史観、社会観を学生に注入することを意味しているのではまったくないということである。問題なのは、学生が読む文献で書かれていることと学生の歴史観・社会観が切り離されたままで終わっていることなのであるから、問題の解決は、この両者を真に対決させること以外にはない。つまり、学習の過程において学生が文献と(フィールド調査の場合にはフィールドでの現実と)自らの歴史観、社会観を対決させるような形に追い込んでいくよう教師の側で意識的に指導していくことが求められているのである。

そのためにはどうすればいいのだろうか。

これまでの経験からいえば、まず、学生が文献や資料を突き放して論じるようにくどいほど何度も何度も要求することである。具体的には、ゼミの発表などで文献の内容を紹介させる場合、「著者によれば」との限定を常につけさせる。そうすることで、文献で展開されている議論を学生がいつのまにか自分の議論として(無批判に)展開しているという非常によく見られる現象を防止できる。(小生はこうした現象を「霊媒」と呼んでいる。他人の言葉を自分の口を通して語っているだけだからである)。やってみると分かるが、何度要求しても、いつの間にか学生は「霊媒」を演じている。自己の思想との対決なしに与えられた知識を無批判に受け入れストックするという、小学校以来12年間にわたる教育のなかで肉体化させられてきた学習法の「成果」である。

あるいは、文献や資料の内容紹介の際に必ず学生のコメントを付けさせることである。学生はコメントを付けることが非常に苦手である。教師の側で執拗に要求しないと、やるのは要約だけでコメントがまったく付かないことがしょっちゅうである。コメントを付ける場合でも、きわめて常識的な感想であることが多い。自分の視点から論じるという習慣がないのである。

さらにレポートの場合には、あるテーマについて論じさせることをせず、文献の書評をさせることである。テーマについて論じるレポートを要求すると、十中八九、学生は数冊の(場合によっては1冊の)タネ本をもとにそれを切り張りしてあたかも自分の見解であるかのように書く。またもや「霊媒」である。

書評を要求するとこうはならない。学生が自らの視点を基準にその書物を評価しなければならないからである。書評をさせるとは、いわば、一次資料を読む訓練である。文献は、そこで扱われているテーマとの関係では二次資料であるが、書評の対照となった瞬間に評者にとっては一次資料となる。文献の議論の仕方自体が検討の対象となるからである。書評を要求することによって、教師は学生が独自の主体として文献に相対せざるをえない状況に学生を追い込むことができる。

それゆえ、ゼミでの指導においては、

  1. 毎週の発表において、「著者の」議論を紹介するという形で発表するように常に要求し、同時に、必ずコメントを付けさせる。
  2. 学期末のレポートにおいては、必ず「書評」の形を取らせる。

というのが筆者の方針である。

” — レポートを書かせてはいけないか (via raurublock)

9:

een goede verstandhouding (via imawuytack)

9:

een goede verstandhouding (via imawuytack)

memorandum@tumblr -

tsukamoto:

otsune:

takaakik:

ak47:

子供部屋ではなく、リビングルームで勉強させること、について話を聞く。

80年代から90年代くらいに子供部屋(個室)悪玉論ともいうべき疑似科学が出て来たらしく、非行に走るのもおちこぼれるのも親の目の届かない個室であそびほうけているからだ、的な議論がまことしやかにささやかれ、その頃からあえて親の目が届く場所で勉強させるのが流行ったのだという。未だにその流行は衰えていないらしい。

最近の子供は社会化が早いから、個室がないと逆に非行に走りやすくなるのでは、という疑問が浮かんだのだけど、それについての解説が面白かった。

今の子供は、個室がなくてもケイタイさえあれば心理的にはひきこもることができる。今の子供には物理的な個室は必要ではなく、ケイタイが事実上その役割を果たしてしまっている。

友達との交換日記も
ラブレターも
親の目を盗んでのゲームも
ケイタイ、なのだ、と。

pdl2h:

akirasek:

(via cyclop)


(via skymin)

pdl2h:

akirasek:

(via cyclop)

(via skymin)

“鮭は実は白 身魚
えさにしてるオ キアミなどが赤い色をしてるため赤身に見えるだけ。
実際、河を遡上し始めた鮭は身がどんどん白っぽくなっていく。
また、えさになるオキアミ類は北の海のほうが多いので、南下していくに従っても色が落ちる。

ちなみに色が落ちるのとほぼ平行して味の方も落ちていく。
うまい鮭を食いたかったら出来るだけ色の鮮やかなのがいいよ。” — 無駄な知識などない - 鮭は実は白身魚 (via konishiroku)

七つの女の子と話をしていたら、作文が終わらなくて困っているという。彼女は小さい子にしては要領よく話すんだけれども、なにしろ七歳は七歳なので、話がくどい。しかもしょっちゅう脱線する。最後まで聞いて推測するに、どうやら何を書いて何を省くかがわからないので作文が長くなっている、ということらしかった。

学校の授業の作文で七五三の話を書くことにして、けれども原稿用紙六枚書いてもまだ、当日の朝ごはんが終わらない。メニューとその匂い、湯気のようす、パンの焼き加減の好みに関する主張で六枚目が終わってしまった。今までのぶんを捨てて書き直すべきか、という意味のことを、彼女は言う。読ませて頂戴というと、ずいぶんとはずかしがってから、結局読ませてくれた。

八枚切りのパンを焦げるぎりぎりのところまで熱してからバターを塗り、しみこませて食べる、ジャムはパンに塗るべきではない、ヨーグルトにいっぱい入れたほうがいい、なぜなら赤(いちごジャム)やむらさき(ブルーベリージャム)が白いのに混ざるのがおもしろいから、あと、わざとちゃんと混ぜないで甘いところと甘くないところをつくる、生の食パンとか意味わからない、不味い、というようなことが延々と書いてあって、私はいたく感動した。ニコルソン・ベイカーみたいだ。徹底した脈絡のなさがすばらしくリアル。他者の価値観を一顧だにしない主観がなんてクール。

たぶん彼女は記憶と思考を選ぶことが、まだうまくできないのだ。それに抽象概念の操作にも慣れていない。だから頭の中を時間軸だけで切り取ったような文章を書いている。

これはすごくいい文章だよ、と私は言った。七五三なんか放っておいたっていいじゃない、ここはひとつ朝ごはんまででいこうよ、捨てちゃうのもったいないよ。私がそう提案すると、彼女は重々しくうなずいて、まあね、これ自分でもわりと気に入ってる、と言った。

でも彼女はそういう作文を書きつづけるにはいかないことをちゃんと知っていて、きれいにまとまった文章を作る方法を知りたがってもいた。だから私は作文を終わらせる方法を教えることにした。

あのさ、まず書くことを決めるじゃない、最初に。七五三とか。で、書くことの前とか後とかあるでしょう。七五三の日の朝ごはんみたいなこと。それはちょっと短くする。どうやって短くするかっていうと、八枚切りのパンを反りかえるまで焼いてから反対側もちょっとあぶって、それからバターをつけて、って書きたいところを、お父さんとお母さんと一緒にパンを食べました、って書くんだ。もちろんお母さんが起きてからよくわからない部屋着に着替えてそれから出かける格好になることの謎についてとか、お父さんのひげそりの音が変化に富んでいて魅力的だということとかは書かない。もっと省きたかったら、ただ「朝ごはんをすませて」、って書く。文いっこもいらない。

もっと短くしたかったら、と彼女は訊いた。私は彼女の真似をして重々しくうなずき、「支度をして家族みんなで家を出ました」って書くの、と言った。もっと、と彼女が言うので、神社の階段を登っているところから始めてもいい、と私は教えた。もちろん一日は朝起きたところからはじまる、でも作文では石段に足をかけたところからはじめてもいい、なんなら帰ってきたところからでもいい。

彼女はやはり重々しくうなずき、ありがとう、と言った。どういたしましてと私はこたえた。

でもそれはほんとうはつまらないことなのだ。誰かの要求にあわせて作文を刈りこむなんて、書く意味があることとないことをふるいわけるなんて、所定の枚数にきれいにおさめるなんて。思いついたことは思いついた順に全部書けばいいんだけどな、と思う。

” — 作文が終わらない - 傘をひらいて、空を (via kml) (via officek3, officek3)

bo-rude:

golfsierra:

meestarman:

happyharry101:

“spaghetty junction”

bo-rude:

golfsierra:

meestarman:

happyharry101:

“spaghetty junction”

妻が陽気でなければ、夫は十分な働きはできませぬ。
夫に小言をいうときでも、陰気な口からいえば、夫はもう心が萎え、
男としての 気おいこみをうしないます。

同じ小言でも陽気な心でいえば、夫の心がかえって鼓舞されるのです。
陽気になる秘訣は、あすはきっと 良くなる、と思いこんで暮らすことです。

「司馬遼太郎全集」より

” — 司馬遼太郎 - 妻が陽気でなければ、夫は十分な働きはでき… (via petapeta) (via atehaka) (via xtc) (via kudan)

“・手塚治虫「ちょっと上手すぎるよね」「彼は僕の後継者」
・荒木飛呂彦「鳥山先生の絵は、漫画家からするとちょっとした発明のようなもの」
・井上雄彦「鳥山先生の絵は漫画家からすると魅力的すぎるんですよね。マネしたくなる気持ちもわかります」
・冨樫義博「嫉妬するほど上手い」
・いしかわじゅん「漫画としての絵という意味で言えば、鳥山以上に上手い漫画家はいない」
・夏目房ノ介「漫画界には大友・鳥山以前と大友・鳥山以後が存在する」
・尾田栄一郎「神様。ディズニーより上手い」
・小林よしのり「デフォルメが上手い漫画家は、わし以外には鳥山明くらいかな」
・真島ヒロ「鳥山先生みたいに絵が上手くなりたいです」
・ジョージ・ルーカス「彼のイラストを見た時は驚いたよ。素晴らしい。本当に日本人が描いた絵なのかと思った」
・ジェームズ・キャメロン「鳥山明のファンなんだ。彼の絵を見るとワクワクするんだ」
・シド・ミード「鳥山のセンスは素晴らしい。世界中探してもこれだけのデフォルメセンスを持つイラストレーターはいない」
・トッド・マクファーレン「鳥山の何が一番凄いのかと言えば、あの色彩センスと画材選択の素晴らしさだ」
・ エミネム「ドラゴンボールの作者に俺のアルバムジャケットを手がけてほしい」
・アンソニー・キーディス(レッド・ホット・チリ・ペッパーズのVO)
「日本に言った時に欲しかったドラゴンボールの画集を買ったんだ。満員電車にも乗りたかった」
・鳥嶋和彦(元ジャンプ編集長)
「彼の絵に関して「基本的な絵の勉強を漫画ではなく、デザイン画などから学んでいるため、バランス感覚が優れている」
「トーンを使わないので、白と黒のバランスを取るのが非常に上手い」
「背景などを描かなくても画面が持つだけの構成力とデッサン力を持っている」” — ゆめみがちサロン:いろんな漫画家の鳥山明に対するコメント (via kawa3) (via soulboy) (via zaiga) (via atorioum) (via vmconverter) (via petapeta) (via hanwarai)

suyhnc:

yang02:

thisisnotfree: half man, half amazin.: Page 3

suyhnc:

yang02:

thisisnotfree: half man, half amazin.: Page 3

以下のセンテンスまたは類似の言葉を使っている映画評は信用できないorつまらない、というワードを淡々と列挙するよ。

と書いている人。基本的に、「自分が読めていないだけなのじゃないだろか」ということに疑いを差し挟まない系の言葉ばかりです。例を挙げると、「人物描写が浅い」というのは、実は台詞で語っていないだけで、「映画ならではのやりかた」つまり、繰り返しとか、癖とか、さりげない仕草とか、喋っている内容ではなくしゃべり方そのもの、とかでばっちり説明されている場合が多々あります。

当然ですが、同じ映画を見ていても、見えているものはひとりひとり違います。上記の「映画ならではの人物描写」を含めて「自分には見えたもの」の感動を伝えるのが、面白い映画評とそうでないものを分かつ境界線と言えるでしょう。

要注意ワードは「深い/浅い」です。あと「薄い」。

これは、責任とか自分とか言ったものからものすごく遠い単語です。深い/浅いは具体的にどうだったのかを全く述べないときに使われる、印象批評では下の下の下下々の下ぐらいの単語でしょう。テーマが深い。よござんす。しかし、「どう」テーマが深いのかを書くのが文章というものの機能なのであって、それをきちんと書けている人はわざわざ「深い/浅い」とは書きません。つまり「深い」と書くのは馬鹿です。要するに何も考えてないということのぶっちゃけというか告白なので、その文章の知性を駄目な方向に数ランク引き下げたいのだったらがんがん使うべきです。

あと「感情移入」できない。これはてブのコメントで教えてくれた人がいましたが、確かに映画評としては使ってはならない単語ベストワンぐらいに位置する最悪バカワードではあります。「感情移入できないのでだめ」確かにこれはまずい。非常にまずい。言ってしまったらあしたから白眼視されるのを恐れたほうがよいでしょう。なぜなら、映画の機能として、観客を登場人物に感情移入させることは、まったく重要ではないからです。現にわたしは感情移入しないで大抵の映画を見ています。

ちなみに、たとえ見方が個人的主観に凝り固まっていても、「おれはこいつが好きなんだ!」というほとばしる熱い想いを、ある程度はみなにわかるようにきちんと説明できている文章は、大体上の単語を使っていません。つまり主観性とか客観性とかはあまり映画評のおもしろさに関係ないようです。「これぐらいわからねー奴は駄目な奴に決まってる」ぐらいのゴーマンさを備えているくらいのほうが面白いのですが、それももちろん上記のセンテンス群に「逃げていない」ものに限るでしょう。

上記のセンテンスを使っていても、その理由をちゃんと書いているものはこのかぎりではありませんが、大体書いてないor説明になってない場合がほとんです。

” — 誰も信じるな - 伊藤計劃:第弐位相 (via ssbt) (via nagas) (via katoyuu) (via matsu9ya) (via katarinax) (via send, send)

“仕事が出来ないヤツは自分よりバカしか採用しない” — 暇人\(^o^)/速報 : 一次面接で落ちる人の特徴 - livedoor Blog(ブログ) (via shibata616) (via sierra7) (via mysterytrick) (via ikurakun) (via yaruo) (via stratums) (via einbahnstrasse) (via ak47) (via markie) (via jinon) (via dannnao)